2009-08-01から1ヶ月間の記事一覧

織部の茶道

古田織部の茶道には 「草庵の茶」と「式正織部流」の 二種類があるそうです。 草庵の茶は千利休の侘び茶の茶道 を継承し多少改善を加えたものあり 利休から学んだ茶道そのものと 言えます。 一方、式正織部流は織部が考案した 新しい茶道です。 豊臣秀吉の世…

総合デザイナー?古田織部

織部は茶道だけでわなく造園にも 携わっていたようで、 各地の庭園などに「織部灯篭」と 言われる灯篭存在しています。 例えば桂離宮にある24基の 石灯篭のうち7基が織部灯篭であり 織部は造園に対する知識も持ち合わせ 灯篭をデザインしていたようです。 織…

織部正叙位

古田織部は1585年秀吉が関白に任ぜられるとともに、 従五位、織部正(おりべのかみ)を叙位し、 山城国西ヶ洞3万5千石の城主となる。 つまり「織部」の名はこのときに賜ったもの なんですね。 織部の幼名は不明ですが 文献に最初に登場する名が「影安」 つ…

利休七哲(りきゅうしちてつ)

利休七哲とは利休の高弟をさす総称で、 後の世でつけられてものです。 七哲には 古田織部 細川忠興 芝山宗綱 瀬田正忠 蒲生氏郷 高山長房 牧村利貞 が挙げられています。 ほとんどが大名であり また七哲以外にも 多くの大名が利休を 師と仰ぎ学んでいたよう…

千利休の死

1591年秀吉は利休に境の自宅での蟄居(ちっきょ)を 命じます。 聚楽第の利休屋敷をでて船で境へ向かう利休を 古田織部と細川忠興の二名が見送ったそうです。 同年2月28日利休は切腹を命じられこの世を 去ります。 秀吉の権勢を恐れ誰も利休を見送らなかった…

千利休と古田織部

1582年山崎の合戦にて羽柴秀吉が 明智光秀を破った同年、秀吉をまじえた *待庵での茶会に関する利休の書簡に 古田左介(織部)の記述があり この頃には千利休に弟子入りしていた と言われています。 織部と利休との親密な師弟関係を 物語る証として「武蔵鐙…

武将古田織部

古田織部は1569年摂津茨木城主の中川清秀の妹と結婚しています。 1571年信長が15代将軍足利義昭を追放した年には 養父から山城国(現在の京都府南部)を継承し、 1575年には同国で代官を務めています。 1578年荒木村重の叛乱に際しては、 村重に組した義兄、…

多くの主君に仕える

古田織部は生誕以来多くの主君に仕えることとなる。 生まれた際の主家は土岐氏 土岐氏が斉藤道三に倒された後は斉藤家に仕え 後に織田家、豊臣家、徳川家と次々に 主君を変えることとなる。古田織部は1560年信長が桶狭間で今川義元を破った 同年に信長に仕え…

古田織部は美濃地方生まれ

古田織部は岐阜県美濃地方の生まれであるとの記述が 多くの文献に記載されているようですが 美濃のどこかかは分かりません。 但し古田織部の祖父が美濃国守護の土岐氏に仕え ていたことから美濃生まれであることは 間違いないようです。ちなみに土岐氏は源氏…

古田織部

美濃焼の代表的な器に「織部(オリベ)」があります。 この織部という名は安土・桃山時代に活躍した「古田織部(フルタオリベ)」という 茶人に由来するもので、現代では緑色の釉薬がかかった器を織部と呼ぶことが多い ですね。 でも実際には古田織部という…