千利休と古田織部

1582年山崎の合戦にて羽柴秀吉
明智光秀を破った同年、秀吉をまじえた
*待庵での茶会に関する利休の書簡に
古田左介(織部)の記述があり
この頃には千利休に弟子入りしていた
と言われています。
織部と利休との親密な師弟関係を
物語る証として「武蔵鐙(むさしあぶみ)の文」という
ものがあるそうです。
これは1590年秀吉の北条氏小田原城攻略に
従軍しいた利休と織部の書簡のやり取り
が残っているもので、
この書簡のやり取りには歌の掛け合い
なども出てきており戦場でありながら
風流な歌の掛け合いをする
両者の教養の高さが伺われるものです。
また利休は書簡のなかで織部のことを
「古織公」と記しています。
織部は利休の弟子であるけれども
3万5千石の大名であるから丁寧に
尊称していたようです。

利休と織部茶の湯や歌を愛しながら
武将として血なまぐさい戦場に
身を置かなければならなかったのですから
お互いに気持ちが通じ合うところが
あったのかもしれません。

*待庵とは京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院、
妙喜庵(みょうきあん)内にある国宝の茶室。
千利休により自身の屋敷よりここへ移築された
とされている。

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